第5章   病人に触れさせなさい           フランシス著



   「群衆のだれもが何とかしてイエスにさわろうとしていた。 大きな力がイエスから出て、すべての人をいやしたからである。」 (ルカ6:19)

   「イエスが入って行かれると、村でも町でも部落でも、人々は病人たちを広場に寝かせ、そして、せめて イエスの着物の端にでもさわらせてくださるようにと願った。 そして、さわった人々はみな いやされた。」 (マルコ6:56)

  イエス様は彼らに触れる必要はありませんでした。 彼らが イエス様に触れると、風のように聖霊の力が流れ出て 彼らに入り、彼らはいやされました。

   「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれる時、あなたがたは力を受けます。 そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および 地の果てまで、わたしの証人となります。」 (使徒:1:8)

  イエス様が人々をいやしたのでしょうか? 「はい」とも「いいえ」とも言えます。 イエス様はこの地上での神様の器でしたが、いやしを行ったのは聖霊の力だったのです。 私たちもこの地上で 神様の力をあふれ出す器になることができます。 これは、病人に手を置くのと逆の、もう一つの聖書的方法だからです。 病人に触れさせなさい。 聖書の中には、この方法でのいやしは あまり記されていません。 そして、今日 私は このような例を多くは聞いていませんが、確かにこれを通していやされる時があります。

   「さてここに、十二年間も長血をわずらっている女性がいた。 多くの医者のもとで、たくさんのひどい目に遭い、その持ち物をみな費してしまったが、何のかいもないばかりか、かえって悪くなる一方であった。 この女がイエスのことを聞いて、群衆の中にまぎれ込み、後ろから上着にさわった。 それは、上着にさえ一度でもさわれば、救われると、言い続けていたからである。 すると、ただちに血の源泉が乾き、女は病気が治ったことをその身に感じた。 イエスはすぐ、自分の内から力が出て行ったことに気づかれて、群衆の中で振り向き、『わたしの着物にさわったのは誰か。』と言われた。 そこで弟子たちは言った。『群衆があなたに押し迫っているのをご覧になって、誰がさわったかと言われるのですか。』 しかし、イエスはさわった者を見つけようとして、見回しておられた。 その女は自分の身に起ったことを知って、恐れて、震えながら進み出て、イエスの前にひれ伏して、すべてありのままを言った。 イエスはその女に言われた。『娘よ。あなたの信仰があなたを救ったのです。平安のうちに行きなさい。病気にかからず健康であれ。』」 (マルコ5:25−34)

  この婦人はいやされたことに気づきました。 あなたは いやす方法に否定的な思いを持っている人々に どのように言うべきか 知っておく必要があります。 たとえば、これまで何度も誰かが来て「ジェーンおばさんのために祈ってくださいませんか。」と言うのです。 私が「ジェーンおばさんはここにおられますか。 喜んで祈りますよ。」と言うと、「いいえ、来ることができないほど 重症なのです。」と言うのです。
  病気が重すぎて来れない、と言うのです! ぜひ聞いてください。 もしジェーンおばさんが医者に電話して、医者が「救急車を呼んで病院に来てもらいますから。」と言うと、ジェーンは救急車が来しだい病院に運ばれます。  普通は、『ジェーンが病気が重くて来ることができません。』と言うのは、言い訳に過ぎないのです。 その時こそ、手を置かれて いやされる必要があるのです。 イエス様の衣のふさにさわった婦人は いろいろ言い訳を見つけることができたでしょう。 多分「私は世界中の医者に診てもらいましたが、少しも良くなりませんでした。 だからこのイエスという人に触れる意味なんて一つもない。 多分 私は死んでしまって 病気を終わらせた方が良い。」と言うことができたでしょう。 今日もこのようは人がいると思いますか。 確かにいるのです。

  最近のことですが、神様の霊が「会衆の中に とてもひどい肺気腫にかかっている人がいる。」と言われました。 神様がいやさなければ、必ず死にます。 私がそのように報告したにもかかわらず、この男性は、いやしを受けるために前に来ませんでした。 チャールズと私が集会を終えて帰ろうとするとき、私はこの男性に「お祈りしましょうか?」と聞くと、彼は「結構です。 もしイエス様がいやしたいなら、いやしてくださいかすから。」と言いました。 あなたはこのような方のために祈りますか? いいえ、祈っても少しも良いことはありません。 これは、「私は悔い改めの祈りをしません。 神様が私を救いたいなら、救ってくださいますから。」と言っているのと同じなのです。 このような人は決して救われません。
  次のようにいらいらさせる人もいます。 「私は 有名な人から祈ってもらいました。 ケネス・ヘーゲン(×)、ケネス・コープランド(×)、オーラル・ロバーツ、パット・ロバートソン、レックス・ハンバード ・・・ 」と続けて名前を挙げます。 そして、「あなたも、私のために祈ってくださいませんか。」と言うのです。 私が祈ったとしても、何の益があるのでしょうか。 全くありません。 なぜなら、多くの人はただ前へ出て、有名な伝道者に祈ってもらい、そして 祈りが実現しなかった伝道者の名前を ただ、挙げるのです。 それらの人々は、神様が何かをしてくださるのを決して信じようとはしません。

  イエス様の衣のふさに触ったこの婦人は、次のように言うことができたでしょう。 「有名な多くの医者が 私を治そうとしましたが、全く無駄でした。」と。 また、多くの群衆を見て、「これはとても大変だ。 もう止めてしまおう。 イエス様の所に行く方法なんてありはしない。 私が治されるのは、神様のみこころではないに違いない。」と。
  多くの言い訳が出てくるものです。 しかし彼女は言い訳しませんでした。 彼女はとても根気強い女性だったと思います。 多分、遠い道のりをやって来たのかもしれません。 そして、「私は帰った方がましです。 遠くからやって来ても何もならなかった。 私はイエス様に近づきもできません。」と言ったかもしれません。 しかし彼女は、そうはしなかったのです。 彼女はそこに、競走馬のように、立っていたのではないかと思います。 足を踏み鳴らしながら、「ここから出してください。 群衆の中に入って、必ず イエス様の所に行きたいのです。 そのためには何でもします。 ひざで這ってでも、どんなことをしてでも、イエス様の所に行きます。 衣に触れると、神様の力で必ずいやされることを知っているから。」と言ったでしょう。
  この婦人こそ あらゆる言い訳をする事ができたでしょう。 しかしそうしませんでした。 彼女は状況を見て失望したかもしれませんが、そうではありませんでした。 また、「もし私が手を伸ばして触れると、問題になるかもしれない。」とも考えることもできたでしょう。 また、恐れに負けてしまっていたかもしれませんが、そうではありませんでした。 彼女は「この一つの道しかない。」と決心して、そのことを実行したのです。 衣に触れる決心をしていました。 それは、触れた瞬間に 完全にいやされることを 知っていたからです。 とても根気強くあきらめなかったので、彼女はいやされたのです。 反対に、彼女の方から触れたのです。 イエス様に触ってくださいと 願いませんでした。 彼女は、「み衣にさえたった一度でもさわれば いやされる。」と何度も言っていたのです。 そして、その言葉の通りに いやされました!

  これはとてもすばらしい聖書物語ですが、今日、誰がこのような力を 衣に持っているのでしょうか。 今日、よみがえりの力にあふれ、病人がその衣に触れればいやされる人がいるでしょうか。 これに対する答えは何でしょうか? それは、すべての 聖霊に満たされた信者は、同じよみがえりの力を 内に持っているのです。
  他にも 衣のすそにさわった話があります。 私は救われて以来、とても狂信的です。 喜んでそう言うことができます。 それは、私の心の中に、イエス様が来られたことが 分かったからです。 新しく創造されたことを知ったからです。 古いものは過ぎ去り、すべてが新しくなったことを、知りました。 私は救われ、そして イエス様が、私の中に住んでおられることを知りました
  イエス様が私の中に住んでおられることを知るのは、世界中で最もすばらしいことです。 皆に、「見てください。 イエス様が見えますか。 私の中に住んでおられるのですよ。」と言いたい気持ちです。

  数年前のことですが、聖霊のバプテスマを受ける前でも、私は神様にすべてをゆだねていたため、多くのすばらしいことが起こりました。 世界中で最もすばらしく大切なことは、他人が何と言おうと、また 何が起ころうとも、少しも気にせず、ただ 神様の望まれることを成し、神様に仕えていれば満足であるという、神様への全き献身です。
  旅行から母教会に帰り、神様が自分を用いてくださり、何百人もの人々がイエス様を信じ 受け入れた、というすばらしい報告をしました。 私の母教会は、聖霊のバプテスマは信じてはいませんでした。 集会の終わりにある人からメモが渡されました。 それには、「この教会にとてもひどい病気の婦人がいますが、帰りに訪問してくださいませんか。」とありました。 その家を訪ねると、その病気の婦人が 床についていました。 私はその当時、あまり いやしについて知りませんでしたが、神様ならいやしてくださると 知っていました。 しかし、神様がどのようになさるかは知りませんでした。 私には力がありませんでしたが、無知な 単純な信仰こそ、多くの事を成すことがあります。
  中に入ると、彼女は、「一つだけお願いがあります。」と言いました。 私は「いいですよ。 何でも致しましょう。」と答えました。 彼女は「ここに立ってください。」と言いました。 彼女の声は非常に弱く、布団の端の方へ 力を振り絞って寄ってきました。 そしてまた、「もっと私に近づいてください。」と言うので、私は「いいですよ。」と言いました。 彼女は 私の祈りを求めようとはせず、「もっと近くに来てください。」と言いました。 私は彼女にだんだん近づきました。 私には彼女が一体何をしようとしているのか、まったく理解できませんでした。 突然、彼女は、それまで私が見たこともないような、すばらしく確信に満ちた信仰をもって 私を見上げました。 彼女は、「もし私が、あなたの衣のすそに ちょっとでも触りさえすれば、いやされると知っています。」と言いました。 私は自分の服を見て、「この服は特別なものには見えないのに。」と思いました。 少しも神様の力があるようには見えませんでした。 けれどもこの婦人は、聖書の中に婦人と 全く同じことを感じていました。 彼女が手を伸ばし、スカートの端に触ると、すぐに、神様の力によって 完全に いやされたのです。
  約14年前のことですが、私がフロリダに最後に行ったとき、彼女に会いましたが、出血を起こしていたあの恐ろしいガンは、それ以来 再発していないと話してくれました。 今でもとても元気で 活発な女性です。 神様は彼女に信仰を与えました。 その信仰は、「フランシスさんの衣のすそに触れるだけで、」と言われたのです。 私に触らせてください とは頼みませんでした。 彼女は 私の衣よりも 足に触る方がずっと簡単だったのですが、彼女の信仰は 私の衣のすそに触れることだったのです。 私の着物は何も特別ではありません。 何でもないものです。 しかし、もしあなたが、神様を完全に信頼しているならば、あなたには油注ぎがあるのです。 あなたの皮膚には油注ぎがあり、身体や手、足にも油注ぎがあります。 病人をいやす油注ぎが与えられているのです。 ですから、あなたに触れているどのような衣服にも、同様に油注ぎがあるのです。

   「神は、パウロの手によって、力のわざのみならず、いつもは起こらないわざをも、次々と行なわれた。 たとえば、人々が、彼の身につけている手ぬぐい(鉢巻き)や前掛けを外して、病人に当てると、その病気が去り、悪霊が出て行くのであった。」 (使徒の働き19:11、12)

  多くの人々はこのことに気づいてはいません。 しかし、これはとてもユニークでありながら、しかも聖書的な、病人をいやす方法の一つなのです。





   第6章   山に向かって語れ           フランシス著



  マルコ11:23で、イエス様は、

   「まことに、あなたがたに告げます。 誰でも、この山に向かって、『動いて、海に入れ。』と言って、心の中で疑わず、ただ 自分の言ったとおりになる と信じるなら、その通りになります。」

と言われました。 イエス様は、あなたに語られているのです。 誰でも、とは、あなたのことなのです! また私でもあり、皆のことです。 神様は人を偏り見られません。 単純に、「誰でも」と言われました。

  この みことばは 非常に大切です。 それはいやしの一つの方法を語っているからです。 「誰でも言うならば」と書いています。 「誰でも祈るならば」とは書いていません。 「誰でも 言うならば」 と、書いてあります。 「言う」ことと、「祈る」ことには 大きな違いがあります。
  あなたが この山に向かって「海に入れ。」と言うならば、あなたはその山に命じているのです。 それは キリストにあって、自分が何者であるかを、あなたはよく理解しているからです。 あなたの中には神様の力があります。 そして聖書に記されているように、あなたはその通りに行なっているのです。 もしあなたが、奇跡を見たいなら、いつも 権威を持って語ってください。 これは必ずしも大声で叫んだり(実は私たちもやりました)するのではなく、あなたに力が伴っていることを、悪魔に知らせるために、権威を持って語るということです。
  あなたが祈る時、神様に何かしてくださるようにお願いをしているのです。 しかし、あなたが「言う」とき、何かが起こるように 命令しているのです。

  弟子たちは聖霊のバプテスマを受けた後、病人のためには一度も祈らなかったことを、ご存じですか? オーラル・ロバーツ大学の神学博士ジェルリー・ホーナー師は、私たちが知っている最も偉大な聖書学者です。 彼は、「ペンテコステの後に、弟子たちが病人のために祈ったという記録は、どこにも見当たらない。」と言いました。 イエス様は、病人のために祈りませんでした。 弟子たちも、病人のために祈りませんでした。 ではなぜ、私たちは 祈る必要があるのでしょうか。
  パウロは 毒蛇を手から払い落とした後、何の害も受けませんでした。 そして 島の首長ポプリオの父のいやしを行ないました。 「そこでパウロは、その人のもとに行き、祈りながら、彼の上に手を置いて いやしを行なった。」 (使徒28:8) いやしを行うときに祈るのは、聖書的です。 もし いやしのために祈っても聖書的ではないので祈ってはならないと、律法的にはならないでください。
  イエス様は、天においても、地においても、すべての権威が ご自身に与えられている、と言われました。(マタイ28:18) そして、私たちに、悪霊を追い出し、病人に手を置いて いやす、という権威を与えてくださいました。

  数年前、オレゴン州のユージンの ウィラメット・クリスチャンセンターで集会を持ったところ、そこで神様はすばらしい 「言うこと」の奇跡を 行なってくださいました。 私たちの集会は普通の集会と少し違っているので、会衆の中の何人かは あまり賛成しません。 それは私たちが賛美をしながら踊ったり、神様が成してくださる事に、とても熱狂的になるからです。 その結果私たちが去った後、マックリー牧師はいつもこのようなカリスマ的集会が理解できない人たちを、なだめ、説得するのです。
  その年、牧師は会衆にとても珍しいことを言いました。 「あなたがたはチャールズやフランシス先生と同じ意見を持っていないかもしれませんが、このことを聞いてください。 もし私が病気にかかると、チャールズとフランシス先生以外の人に祈ってもらいたくはありません。 それは 二人の信仰が、とても単純で、手を置けば必ずいやされると信じており、その通りいやされるからです。」と言いました。 彼は自分の人生について預言をしていることを全く知らずに、このことを言ったのです。 しばらくして、悪魔は彼に致命的な脳腫瘍を起こしました。 これは一般に知られている癌の中でも、最も早く進展するものだったのです。 まもなく、目が見えなくなり、片方の耳が聞こえなくなり、我慢できないほどの頭痛を持つようになりました。 神様は会衆の一人の婦人に、マックリー師が病気になれば 誰に祈ってもらいたいかを思い出させてくださり、奇跡的にも、登録されていない私たちの電話番号を手に入れ、マックリー師が語ったことを 私たちに知らせてくださいました。 医者は、1か月か 2か月の命だと言いました。 この知らせに教会全体は とても動揺しました。 彼はすべての社会活動から身を引きました。 (教会は 死の床にある人に完全看護をするのが常だったので、彼にもそうすることを保証しました。) それまで、マックリー師は 自分や他人のために、いつも祈る信仰をもっていましたが、この自分の病に関してだけは、信仰を持てないと言いました。 私たちもこのようなことを経験したことがあります。
  私たちはすぐに電話をしました。 聖霊は、私たちが彼の所に行くのではなく、彼が私たちのいやしの集会に出席するように語ってくださいました。 それで、私たちは彼と 彼の奥さんの全費用を払うので、アメリカ国内のどの集会にでも 来るようにと伝えました。 私は、彼の返事を決して忘れることはできません。 彼は、「それは、私のたましいにも 平安があります。」と言いました。 彼はカリフォルニア州のサンディエゴの集会を 彼らの集会として選びました。 もう10日後に迫っていたからです。
  彼らは最後の集会にやっと出席しましたが、遅れて来ました。 会場に入ってきたとき、私たちはステージから飛び降り、彼らの所に走って行き抱きしめました。 悪魔が 私たちの愛する主にある兄弟にしたことに対して、私たちの心はとても痛んでいました。 私たちは、彼に深い愛を示すこと以外に、主に導かれていませんでしたので、彼のためには祈りませんでした。 私たちは集会を導くために、ジェリー・バーナード師と共に ステージに戻りました。 師が知識の言葉を語っていたとき、主は 私に、「今、彼のいやしのために祈りなさい。」と語られたので、振り向いて チャールズに マックリー師を呼ぶように言おうとしましたが、すでにチャールズは行ってしまった後でした。 すると すぐに、バーナード師が私にチャールズに、マックリー師をステージに連れてくるように言いました。 神様の霊は、私たち全員に 同時に語られたのです。

  チャールズは、集会が持たれていたエル・コーチェ・ホテルの大広間に、マックリー師を連れてきました。 私は手を置き、その山に向かって命じました。 悪魔が神様の子供にしようとしていることに、とても怒りを感じました。 「悪魔よ、イエスの御名により、おまえを縛る。 おまえの力を封じる。 悪魔よ、癌の霊よ、イエスの御名によって、今、マックリー師から出てこい。」 マックリー夫妻は、神様の力に倒されました。 それは 私たちにとって、心を動かされた瞬間でした。 テレビカメラが彼らをとらえ、そして私を写した時、私は大声で「彼を写しなさい。 致命的な癌からいやされる人を、全世界の人々に見てもらいたいのです。」と言いました。 聖霊が会衆に働いていた時、全員が大きなため息をつきました。 ある人々は 私が 実在しない物を呼び出していると思い、また ある人は 私が信仰の賜物を受けたと思いました。 しかし、そのどちらでもありません。 私たちが、山に向かって命じたにもかかわらず、私はただ、神様の指がマックリー氏の脳に入り、癌の主要を取り出している幻を見ただけでした。 本を読むように はっきりと、腫瘍が取り出されているのを見ました。 それはあたかも、脳のすべての悪い部分を 押し出しているように見えました。 彼は床から起き上がりましたが、何も起こっていないように見えました。 ただ、「もう頭は痛くありません。」と言っただけでした。 席に戻ってしばらくして、彼は奥さんの顔を見て、「フランシス先生の服がはっきり見える。」と言いました。 神様はその夜、彼の身体に働き続け、翌朝には 完全に目が見えるようになり、普通に聞こえるようになりました。
  彼は、家に帰って、死ぬのではなく、3か月後には スリランカに行きました。 彼が祈った最初の人は 眼球がなかったのですが、彼が手を置くと、目の中に眼球ができました。 マックリー師が医者の所に戻り、レントゲン写真を撮りました。 診断書には、『脳から腫瘍が絞り出されたように見えます。 腫瘍のあった箇所は空になっています。』とありました。 医者は、神様が 私に 幻ではっきり示してくださったことと、同じ証言をしてくれたのです。
  私は心から悪魔を憎んでいます。 山に向かって命じる時、私はそのことが起こると信じています。 私は祈りませんでしたが、心から命じたことに注意してください。

  この同じ原則は、逆にも働きます。 ですから、私たちは 語る事に注意しなければなりません。 クリスチャンは、自分たちの語っている言葉で、最も恐ろしいことを身に招きうるからです。 イエス様はこの約束をしたとき、制限を加えなかったのです。 イエス様は、「もしその人のためになれば、言ったことは何でも起こる。」とは言われませんでした。 「何でも、言ったとおりになる。」と言われたのです。
  良い例を話しましょう。 まだ、私がフロリダに住んでいた頃、毎年10月には流感がよくはやりました。 そして毎年10月には、クリスチャンになる前から、私は山を動かす信仰を持っていました。 その山とは何だったと思いますか。 それは私の健康に関することだったのです。 健康な身体が 風邪にかかる という、十分な信仰を持っていました。 私は口でそれを告白していましたが、それがいったいどういう意味なのか、まだ知りませんでした。 10月1日になると、よく次のように言いました。 「さあ、また10月になった。 毎年10月には風邪にかかる。 アジア風邪であろうと、香港風邪であろうと、豚の風邪であろうと、馬の風邪であろうと、とにかく私は風邪にかかる。」と。 自分の言った言葉に陥っていたのです。 どのような風邪であろうと 絶対にかかるという、変な確信を持っていました。 そしてさらに進んだ信仰を持ち、「どんな努力も無駄だ。 医者に50回行っても、ペニシリンと B−12を打ってもらっても、何の効果もない。 とにかく3週間ベッドに寝込むことになるのだから。」と。 毎年10月には、私はどこで過ごしたと思いますか。 ベッドにいました。 それは他の人が風邪にかかったからではなく、私の口の告白のためでした。 風邪をひく必要はありませんでしたが、私は マルコ11:23 の原則を 実行していたのです。 告白し、信じました。 私の心の中には、何一つ疑いはありませんでした。 風邪をひくことを知っており、その通りになりました。
  しかし今、感謝なことに、もう絶対 風邪にかかりません。 私は救われみことばを学び、そして もう、風邪をひく必要がなくなりました。 なぜなら悪魔がそれを家の中に持ち込もうとすると、「悪魔よ、どこか他へ持っていけ。 私はそれを受け入れない。 そんな物はいらない。 私の家に持ってきてはならない。」と 権威をもって言います。

  私が告白していることがわかりますか。 あなたも同じように告白することができます。 マルコ11:23 は、私にも、あなたにも、真理の言葉です。 「誰でも」とは あなたであり、私のことです。 イエス様が「誰でも」と言われた時、それは、そのみことばを信じて、「動いて、海に入れ。」と言う事ができる 神様のしもべ のことであり、そして、心の中で疑わなければ、その通りになるのです。
  なぜ、多くの人々は 神様の代わりに、悪魔を簡単に信じてしまうのでしょうか。 良いことが起こるよりも、悪いことが起こると なぜ信じるのでしょうか。 悪魔が何か小さな症状を持ってきたとき、私たちは 「何か悪いことが起こるのではないだろうか。」と言いがちです。 そんな時、そう言うのを、止めてください。 その時こそ、あなたの中におられる方が立ち上がり、「いや、そうではないぞ、悪魔よ。 私は症状を見ないし、決して状況を見ないぞ。 私は神様のみことばに注目する。 みことばには、山を動かそうと思えば、動かす事ができるとある。 今、私が動かそうとしている山とは、病気だ。 病気よ、私の言っていることが聞こえるか。」と言ってください。 マルコ11:23 に「話しかける」とあるのに注目してください。 神様に話しかけるのでしょうか? 「神様に祈り、山を動かしてもらいなさい。」とありますか?
  いいえ、そうではありません。 「誰でも、この山に向かって 言う者は」とあります。 あなたは、病気そのものに 語らなければなりません。 風邪なら、「風邪よ、出て行け。 おまえが私の身体を蝕むことなど、許されない。 おまえと付き合う時間などない。 他にすることは多くある。 イエスの御名によって 出て行け!」と言ってください。 癌なら癌に語ってください。 背中が悪ければ、背中に語ってください。
  病気に語ってください。 信じて、権威を持って語ってください。 悪魔に耳を傾けず、疑いを捨て去り、不信仰が入って来ないようにしてください。 なぜなら 次にある条件は、「心で疑わず、それらの事が起こると信じる」とあるからです。 疑いや不信仰は いつも悪魔から来ます。 疑いや不信仰が来たときは、決して耳を傾けないようにしてください。 それは悪魔からのものだからです。 神様は決して疑いを持ってきません。


  病気に命令したり、身体が丈夫になるように命じるのは、病気をいやす最もやさしい方法です。 過去数年間にわたり、「語る」ことと、「告白する」こととの間には、混乱と誤解がありました。 いやしには2つの分野があります。 一方は することであり、他方は 受けることです。 この2つの違いを はっきり説明しましょう。
  「語る」とは、いやしのための命令です。 「告白」は、将来起こることへの信仰、すなわち いやしの現われなのです。 この2つの間には大きな違いがあります。
  語ることは、言葉に権威を持たせること であり、告白約束を受けることです。 両方とも、現在存在していない物を、現実の物にしようとする、言葉の行為です。
  両方ともすばらしいものですが、間違わないようにしてください。 これらを混同したために、問題が起こってきました。 イザヤ53:5 にある、

   「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの 咎(とが)のために砕かれた。 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」

は、有名なみことばになりました。 このいやしの方法を用いるとき、クリスチャンはもっと信仰を働かせなければなりませんが、それと共に、慎重になることも大切です。 例を話しましょう。
  あるとき一人の男性が てんかんにかかり、ひきつけを起こしていました。 そして、口から泡を吹き、床に寝そべり、身体がけいれんしていました。 彼に手を置こうとすると、とても狂暴になりました。 彼の友人は、「手を置かないで。 もう、いやされましたから。」と言いました。 たまたまそこに、クリスチャンでない人がいて、私たちに、「あなたがたはそれを信じているのですか。」と聞きました。 彼は全く理解できなかったので、とても驚きました。 彼は 現実を見て、「ああ。あんなに口から泡を吹いて、・・・ 誰か、口に鉛筆を入れて、舌をかまないようにすれば良いのに、全身けいれんを起こしているのに、いやされたなんて、」と思ったでしょう。
  けいれんが終わり、彼は「なぜあなたは 私のために祈ったのですか。 私はすでにイエス様の打ち傷でいやされたのですよ。」と言いました。 イエス様は、人々が信じるために いやされたのです。 この人と友人は、心から信じていました。 しかし、会話には 知恵が足りませんでした。 というのは、彼はまだ救われていない人に、そのことを話したからです。 その人は 未信者だったので 信仰はゼロでした。 いやしを「宣言する」ことは、多くの人々を、さらに疑わせます。 それは、多分 彼らは「口から泡をまだ吹いており、床でひきつけを起こしているのに、いやされたと言うなら、あなたは気が狂っているか、あまり良くない神様を信じているのでしょう。 ありがとう。 でも、あなたの宗教には入りません。 他を探します。」と言うでしょう。
  私たちは慎重にならなければなりません。 イエス様の打ち傷によっていやされた、と言うなら、あなたよりも信仰の強い人か、同じ信仰を持っている人に言ってください。 そうすればあなた自身の信仰も引き上げられます。 いやしの効果が実際に現われていないならば、決して未信者に言わないようにしてください。 「私は、いやされたと信じています。」と言った方が、もっと正確でしょう。

  そのことを言う、一番適切な人は、あなた自身に対してです。 あなが正直に、心から信じて受け入れ、信仰が引き上げられるまで、自分自身に言い聞かせてください。 そしてそれを現実に受けてから、「彼の打ち傷によって私はいやされた」と言ってください。 私は、個人的に神様に告白する方が、さらにすばらしいと思っています。

  私たちが告白したことを、心から信じるところまで、どのように到達するのでしょう。 ある時、次のように言っている本を読んだことがありました。 この本を読み終わると、毎朝両手を挙げて、『神様あなたを愛します。』と、愛の告白をしてください。 次の朝も同じようにしてください。また、その次の朝も同様に、『神様あなたを愛します。』と言ってください。 私が初めてこれをしたとき、心の中で、「神様あなたを愛しているか分かりません。 あなたが私を愛してくださっているのは知っています。 私に、永遠のいのちをくださるために、イエス様を十字架につけられたことを 知っています。 あなたの愛を受け入れます。 しかし、私が 本当にあなたを愛しているか わかりません。 でも愛します。」 そして、ついにある朝、「神様、あなたを愛します。 心から、本当に愛します。 あなたの愛を受けるだけでなく、私は あなたを愛します。」 と言いました。
  私はどのようにして、心から神様を愛するところまで 到達したのでしょうか? 神様に 愛を 告白し続けたからです。 「神様、愛します。」と言い続け、それが私の生活の中で 現実の物となり、霊の中に入るまで 告白し続けました。
   「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」と告白する、霊の原則がおわかりでしょうか? 神様の前に、私たちは正直にならなければなりません。 なぜなら、私たちは決して神様をだますことはできないからです。 ある人々は次のように言います。 「彼の打ち傷によって、私たちはいやされました。 神様、そうですね。 必ずですね。 私はその告白をしましたから、あなたは今、私をいやさなければなりません。」と。 そうではないのです。 神様は、あなたが心から信じ、いやされたことについて 一つの疑いもなくなるまで、いやしを行う義務はありません。 このことを知っていますか。 あなたが、それを告白し続けるなら、私が心から神様を愛していることに気づいたように、あなたも必ず、ある日突然、いやされたことに気づくでしょう。 ある期間 もしあなたが薬を飲んでいたなら、いやされるまで飲み続けなさい。
  数年間にわたり、私の顔に黒い大きなしみがありました。 いつもテレビに出るたびに、厚化粧していたのです。 それでもまだ、大きな黒いしみが見えました。 ある日、私は「これは神様のベストではない。 みことばには 私はいやされた、と記している。」と思い、指を黒いしみに置き、「イエス様、これに触れてください。」と言いました。 翌日、その黒いしみは相変わらずありましたが、「イエス様感謝します。 あなたの打ち傷により、私はいやされました。」と言いました。 そしてある日、それを言うのを忘れました。 なぜだかわかりますか? そこにはもう、しみは無かったからです! あなたにも このようなことが起こるなら、すばらしいことです。 どうか、告白し続けてください。
  しかし、もし あなたに起こらなければ、がっかりしないで、他の方法をやってみてください。 たぶんあなたは、「これは信仰が足りないことなのだろうか。」と思うかもしれませんが、そうではないのです。 それは信仰が足りないのではなく、知的過ぎるのです。 多くの人々は、心から信じるまで みことばを告白し、そして いやされますが、それが神様のいやしのただ一つの方法ではありません。

  ここに面白い例があります。 ある時、ワシントン州で集会を持っていました。 一人の婦人が車椅子で集会に来ました。 彼女は「私の教会では、一度 手を置いて祈られたら、二度と祈ってもらわないように と言います。 それは、信仰の足らなさを示しているからです。」と言いました。 長年にわたり、彼女は、「彼の打ち傷により 私はいやされた。」と言い続けたと、話してくれました。 「あなたは今、歩いているのですか。」と聞くと、「いいえ」と言いました。 「それでは あなたは いやされていないのです。 あなたへのいやしは与えられていますが、それと、実際に いやされた事とは、大きな違いがあります。」と言いました。
  64年前、私が生まれたときに、すでに 救いは 私に与えられていたのですが、私がそれを受け入れ 救われるまで、49年間もかかったのです。 私のための救いは、以前からありましたが、私が信じて受け入れるまで 私は救われませんでした。 救いは提供されていましたが、私は救われていなかったのです。 なぜなら、私はその救いを受け入れていなかったからです。 もし私が、教会に一度だけ行き、家に帰り、「私は救われなかった。 だから神様は 私が救われることを望んでいないのだろう。 教会に一度行ったのに、救われなかったのだから。」と言ったらどうでしょうか。
  実際、私が救われる前の9か月間にわたり、一週間に3回も教会に行きました。 私にとって 自分が罪人であると、告白することはとても難しかったのです。 しかし、感謝すべきことに、心から信じ、霊の中に深く入るまで教会に通い続け、そして 私は一瞬のうちに救われたのです。
  この婦人は、「教会の人たちは、『あなたがもう一度祈ってもらえば、それは 信仰が足りないことを示しているのであって、一度祈ってもらえば もう いやされているのですよ。』と言うのです。」と言いました。 私が、「もし私が あなただったら、どうすると思いますか? 私は歩けるまで、あらゆる祈りの列に並びますよ。」と言うと、彼女は、「それでは、『その打たれた傷によって、あなたがたはいやされた。』という みことばは、どうなるのですか?」と聞きました。 「あれは一つの方法ですよ他の方法もやってみましょう。」と私は言いました。
  その夜、手を置いて祈ってもらいたい方々に、前に出てきてもらうと、この婦人も出てきました。 イエスの御名により、婦人に手を置きましたが、彼女は動かずに座ったままでした。 翌日、彼女の教会の数人が、彼女に、「見てごらんなさい。 いやされなかったでしょう。 もう絶対にいやされませんよ。 なぜなら昨夜、前に出て祈ってもらったことで、信仰が足りないことを示したのですから。」と言いました。
  翌日、この婦人は来ませんでした。 一日中泣いていたのです。 私たちはもう一日 そこにいました。 そして彼女は、朝の集会にやって来たのです。 彼女は集会の前に 私たちと話すために、早くやって来ました。 彼女は、「どうして良いのかわかりません。 昨日、皆が私のところにやって来て、『前に出て祈ってもらったので あなたは罪を犯した。 以前にも祈ってもらったのだから、いやされているはずです。』と言われたのですが、私はいやされたとは感じていません。」と言いました。 私は、「今朝 あなたは 歩いていましたか。」と聞くと、「いいえ」と答えました。 「それでは、いやしは提供されていますが、まだ、いやされていないのです。 今朝の集会の終わりに、前に出てきてください。 あなたの いやされる時がいつであるか、誰にも予測できませんから。」と言いました。 彼女は涙を浮かべて、「本当にもう一度、前に来ても良いのですか。」と聞きました。 「もちろんです。 もし私があなただったら 決してあきらめません。 私こそ、一番粘り強い人間です。 戸が開くまで しつこく叩き続けますから、神様は やむを得ず いやしてくださると信じています。」
  集会の終わりに、彼女は前にやって来ました。 彼女に手を置き、すばらしいみことば、「金貨や銀貨は私は持ち合わせていない。しかし、私にあるものをあげよう。 ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」 (使徒3:6) を引用しました。 彼女は何をしたと思いますか? 彼女は、背中をピストルで撃たれ 脊髄にとてもひどい傷を受けていたのもかかわらず、車椅子から立ち上がり、歩き始めたのです。 ハレルヤ!
  神様は2千年前に、いやしを提供してくださいました。 彼女も、何年もみことばを引用してきました。 しかしもし、私たちが 「それはすばらしい。 それは大切です。 引用し続けなさい。」と言ったら、まだ車椅子の生活をしていたことでしょう。 私たちは、彼女が 元気なご主人を車椅子の乗せ、教会から押して出てくる写真を撮りました。 ハレルヤ!

  神様、感謝します。 まだ多くのいやしの方法があります。 自分のいやしのために、みことばを引用して 効果があれば、続けてください。 そして他の人々にそれを教え、効果があれば続けるように 言ってください。 しかし、一つの方法で効果がなければ、他の方法を 試みてください。 神様のいやしの方法は、一つだけではありません。 ですから、あなたも 一つの方法に限定してはいけません。 神様はどのような方法でも、あなたをいやすことができます。
  多くの 祈ってもらうために前に出てきた人々が、「あなたが手を触れたとき、そこに立っていましたが、雲が立ち込め 私を包み、身体から力が抜けてしまいました。 すると突然、身体中の血液が動くのを感じ、知らないうちに完全に いやされていました。」と言いました。 これが いやされる一つの方法だと思います。 しかし、それだけではないのです! 誰でももんな身体から力が抜け、雲に包まれる必要はありません。 神様の力に倒されて、床に寝ている間に 完全にいやされるのを、多く見てきました。 神様の力に倒されず、立ったままいやされた人々も多くいます。 また、神様の力に倒されても、いやされなかった人々もあります。 そして、立ったままで、いやされなかった人々もいます。

  神様は、ご自身の思い通りのことを、どこででも 成されます。 集会の帰りに あなたをいやすこともできます。 いやされるためには、教会にいる必要はありません。 というのは、神様は、望まれるどこででも、いやされる方だからです。 神様はあなたを、どこででもいやされるばかりではなく、問題にかかわりなく あなたをいやしてくださいます。 イボをいやし、折れた足の骨をいやし、そして 癌も 全く同様にいやしてくださいます。 私たちの集会で、実際 癌が 身体から取り除かれたこともありますが、いつも同じ方法でいやされるとは限りません。 また 癌の組織を吐き出したのも見てきました。 しかし、癌が取り除かれるとか、吐き出されるとか、また、消えてしまうとかは、結果的には重大なことではありません。 大切なのは、その人には もう 癌がない、ということなのです。
  語るにせよ、告白するにせよ、あなたがいやされるにせよ、人々にいやしを与えるにせよ、この大切なことを覚えていてください。

   「このキリストによって、私たちは 恵みと 使徒の務めを受けました。 それは、御名のために あらゆる国の人々の中に、信仰の従順をもたらすためなのです。」 (ローマ1:5)






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